イベント・紹介動画
【探究学習セミナー2025】
「探究学習における『心理的安全性』を確保するには」
昨年度に引き続き、関西大学梅田キャンパスで探究学習に関するトークイベントを開催しました。その様子を動画で公開いたします。
今回は、関西地区で探究学習の推進に尽力されている先生方に、実践例を交えながら「学びをどう深めていくか」についてお話しいただきました。
当日説明で使用した資料のダウンロードも可能です。また、質疑応答で当日会場で答えきれなかったものについても、お二人の先生に回答していただいています。ぜひご覧ください。
動画提供・関西大学
[開催日]
2025年8月23日(土)
[プログラム]
- 「なんでも学べる“教室の雰囲気”のつくり方:個々の生徒の学習過程をすくいあげる探究支援」
- 「教師も生徒も《書くこと》をおそれない探究学習をめざして―大阪府立東高等学校 レポート・ライティングの実践を例に―」
- 質疑応答
[登壇者]
清教学園中・高等学校 探究科教諭 山﨑勇気先生
大阪府立東高校 探究推進部長(国語科)石山貴裕先生
テーマ紹介①
「なんでも学べる“教室の雰囲気”のつくり方:個々の生徒の学習過程をすくいあげる探究支援」
清教学園中・高等学校 探究科教諭 山﨑勇気先生
探究学習支援の難しさには、「テーマ設定」「文章表現」「生徒どうしの対話」「形成的評価」などが授業者の悩みとして挙がる。個別の事象に見えるこれらの悩みは、一方で背景にいつも「心理的安全性」がつきまとう。自分が興味あるテーマをあえて選ばない、考えがあっても文章を書かない、生徒同士や担当教員との対話が気まずいものになる…。自由闊達な学びが期待される探究で、なぜ心理的安全性が障壁となるか。それはいかにして解消可能か。中学3年生が論文を書く清教学園での、研究進捗アンケート、オフィスアワー、資料レファレンス、作文指導等の実践を紹介しつつ、生徒たちが学びたいことを学び、書きたいことを書ける・言える教室づくりを模索する。
テーマ紹介②
「教師も生徒も《書くこと》をおそれない探究学習をめざして―大阪府立東高等学校 レポート・ライティングの実践を例に―」
大阪府立東高校 探究推進部長(国語科)石山貴裕先生
どの進路を選んだかにかかわらず、生徒が高校を卒業して最初に直面するのは「〇〇の書き方が分からない」ということである。特に大学進学者の「レポートの書き方が分からない」という悩みは、大学が「アカデミック・ライティング」の授業を設置するレベルで苦心していることからも想像できる。しかし、高校での「書くこと」の指導が不十分なことも事実であり、その状況を打破すべく、勤務校では昨年度よりレポート執筆に取り組んでいる。今年度は『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社・阿部幸大著)を副教材としたが、そこから見えてきた「教員の不安」をまずどう解消するのか、そして「教員・生徒《両方》の心理的安全性をどう担保するか」を実践的に話したい。
質疑応答(追加分)
時間の都合上、会場では回答のできなかった質疑応答です。
レポートや卒業論文の添削は誰が、どの程度まで行っているのでしょうか?
山﨑先生:
授業担当者2名(図書館付探究科教諭)が、150名の生徒の論文を添削しています。「程度」は大学等での一般的な論文指導のそれをイメージして頂ければ。てにをは、論文全体の論理構成、字体・段落・半角全角・引用手法といった書式など。A4/2up/両面で印刷し、赤ペンでゴリゴリ添削していきます。細かな内容はセミナーの配布スライドに「卒業論文のデザイン」という本校の授業テキストへのリンクがあるので、そちらをご覧ください。
1年間30コマの卒論授業のうち、実際に生徒が文章を書き始め、添削が必要になるのは最後の3か月くらいです。その時期は常に誰かの論文を読んで評価を行います。やはり生徒がかなり勉強してくれているので、書いたものがあるからこそ、こちらも添削のしがいがある感じです。
石山先生:
石山もレポートについて補足します。本校では、レポートの添削は敢えてしていません。生徒の自己チェックに委ねます。
校内サイトに掲載する際は、てにをは程度は整えますが、今のところ、石山のみで200名の内容をざっと確認しています。このあたりはこれから校内で確認体制と項目を整えたいと考えています。
清教学園さんの図書館について、貸出の期間、冊数制限、購入希望が出てから配架されるまでの日数
山﨑先生:
貸出期限は2週間、20冊までです。ただし予約者がいない場合は延長も可能で、冊数制限も有名無実化しているので、探究に関する資料はいくらでも借りられるのが現状です。
購入希望から配架までの日数は、最速で3日ほどです。生徒のテーマに応じる急ぎ注文は、取次を通さずAmazonでやってしまうこともよくあります。購入し、システムへ蔵書登録し、ブッカー(保存用コートフィルム)をかけるところまでやって、希望を出した生徒に連絡します。年間3,500冊あるので、通常はそういうわけにはいかないです。司書室での見計らい(購入するかためし読みする)も含めると、だいたい1か月くらいはかかっているかなと思います。いずれにしても、「これは予約がかかっている」「これはあの生徒のテーマに合いそう」という本は優先して受入処理します。
探究テーマを自由にすることで、現在センシティブだとされうるテーマ(SNSで「炎上」しているような内容など)を選択しようとする学習者はおられますか? また、もしおられた場合、テーマ選択や探究遂行にあたって、何か特別な配慮や視点を持って当たられているか、それとも他と同様に指導されておられていますでしょうか。
山﨑先生:
石山先生とも当日話題になったのですが、例えばオカルト、疑似科学、陰謀論などもたまにテーマに上がります。そうしたテーマについては、まず科学的手法で現象を扱った資料を手に入れるように伝えています。自ずと「なぜ人はオカルト(疑似科学、陰謀論)にはまってしまうのか」といった、人がそのような現象におかれる背景をさぐるようなテーマに収束していきますね。一方でジェンダー問題や最近はポリコレなどもそれなりに多いですが、いずれも「学術的にちゃんとした本」が読めればだいたい良い研究になります。あとは犯罪やミリオタ系は倫理観を伴ってね、とか。(SNS炎上はあらゆる分野で起こるので、言い出すときりがないですが…笑)
石山先生:
これはむしろいないほうが不思議なくらいですが、その数は少数です。生徒には「人権を侵害するテーマや内容は許されない」と伝えていることはセミナーで話したとおりですが、それ以外に、「男女」「日本人・外国人」「ホームレス」「犯罪者」というような、①二分法によって実際に存在している「その間にある人」を排除しかねないテーマ設定や、②何かしらの背景を有してそうならざるを得なかった人をひとまとめにしてしまうテーマ設定には特に気をつけるべきだと必ず伝えます。そこにSNSの炎上を加えるならば、やはり人権にかかわるテーマであるから取り扱いには細心の注意を払うべきことを生徒には伝えるかと思います。
心理系の探究で、男女の〇〇というテーマにする生徒が、管見の限り多いように感じますが、近年のジェンダー研究に触れつつ、その二分法は本当に適切なのか、異性愛を暗黙の前提にしていないか、そういう探究がマイノリティの人の尊厳を傷つけないか、ということは常に生徒に問い続けます。
山﨑先生の発表で、探究学習のマトリックスで、第3象限の心理的安全性の確保は難しいとのお話でしたが、探究以外の多くの通常授業で行うグループワークはそこに位置するのかな(テーマ狭い、協働で理解を進めていく)と思います。構造の問題だと言ってしまえば、それまでなのですが、そういった「普通の授業」の「心理的安全性」について何かヒントがあれば教えていただけると助かります。あと、教員同士の心理的安全性の話もありました。個人研究がいずれは他者に繋がっていく、それが「よい学習集団」を構成していくというお話だったと思うのですが、教員は「教育」という興味、問題意識などがお互いにあって、大学でそれを個々で探究してきたはずなのに、学校現場では上手く繋がれないことがあるのはなぜなのでしょう? エドモンドソンの心理的安全性はこの「他者とつながるタイミング」で出てくるテーマになるのかなと思いました。こちらについてもご意見聞かせていただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。
山﨑先生:
①第3象限が通常授業のグループワークというのは、おっしゃるとおりと思います。教科でも、部活でも、クラス活動でも、過去日本の教育現場の「探究」や「心理的安全性」はほとんどの場合第3象限に位置づけられ、Rogers的な視点を体現する活動は稀だと思います。そうした中で探究くらいは第1象限を扱った方がよいのでは?と思うのですが。
そうした第3象限のヒント…正直僕は自信をもって答えられるほどの経験が無いですね。クラス運営の上手い先生、授業の雰囲気のいい先生、そうした先生方の経験に依っていくのかなぁと思います。Edmondson以前に、石山先生が挙げていた「支持的風土」みたいな話なのかも。自分の少ない経験から挙げるとすれば、第3象限の授業であっても、互いの興味・関心を持ち寄り形成されたグループであれば、おのずといい学習になっていった、ということはあります。かつて高校でSDGs×グループで探究の授業を担当したときは、「SDGsは最初どうでもいいから、とりあえず興味あること個人で考えて勉強して」→「それじゃ、そろそろ似た分野どうしでグループ作るわ」→「最後に無理くりSDGsの目標に合わせればいいよ」みたいな方法を自分の授業でとったことも。例えば「初音ミクについて研究したい」→「初音ミクが日本だけでなく国際的にファンを得ている」→「二次創作アリの同人文化として広まり、日本だけでなく各国の多様な文化と初音ミクが結びついて創作活動が行われムーブメントが起こっている」→「二次創作文化が各国文化を繋ぎ、相互理解を促し、『人や国の不平等(SDGs10)』撤廃に繋がる」という感じです。すごい詭弁ですね。でも元気にグループワークしてましたね…。
②教員集団の心理的安全性については、当日のパネルでとり上げたとおりです。仕事へのスタンス、教育観、互いに違えば難しさも出て来るし、衝突なく干渉しないのもそれはそれで残念な感じがあります。そうした教員集団の話はまさしくEdmondsonの研究の世界なので、ぜひ著作をお読みください。他にも、最近なら勅使川原真衣(2025)『「これくらいできないと困るのは君だよ」?』(東洋館出版)
も素晴らしい本でした。おススメです。教育現場で働くということの実存を問われます。
①業績基準とは何か、誰が決めるのか
②ネットでの情報のみで完結しようとする生徒はいないのか。書籍を利用するというのは必須なのか
③書籍の貸出期間と冊数は
④人権的にどうなのというテーマの場合はどうするのか
⑤卒論は成績に反映されないのか
以上です。よろしくお願い致します。
山﨑先生:
①Edmondsonで出てきた言葉ですね。それほど深い意味はなかったと思いますが、上司から与えられた仕事の質や量、あるいは学校なら課題の負荷でしょうか。清教学園中学の場合は「論文」ですね。一方でRogersに習うなら、今回のセミナーでは扱わなかった「創造性の内的条件」も絡んでくるように思います。探究学習の経験を経て、生徒は外発的な動機付けではなく、自ら業績基準を上げていきます。自己評価が高まり、自分の研究への自負や自信が生まれ、「私だけの研究」という感覚が芽生えるんですね。本校の中学生も、11月の卒業論文提出後3月までずっと改訂を続けているので、外から求められる業績基準、内から湧き上がる基準、それぞれあるのかなと思います。清教学園のスタッフはこうした現象を「学習観」という言葉で捉えています。学習が成績のため、大学入試のため、大人に怒られるから、といった事柄の手段としてしか成立していない場合は「学習観が貧困」などと言うことがあります。
②ネットしか使わない生徒はいません。授業として、図書が必須になる仕組みを作っています。半年ほどは情報端末も使わず、図書館の書架に立ち、本をひたすら読み、付箋を貼り、手書きノートにまとめます。その後はPCやWebサイトも解禁します。平均参考文献冊数は11.3冊、通読図書数は5.9冊、Webサイトは3.6サイトです。書架や図書は生徒のテーマの変化に対応できること、テーマの可能性を拡げてくれる点に分があり、Webは学習を通じて得たテクニカルタームを用いて初めて「まとも」に検索できるようになると教えてます。ネットは鍵のかかった百科事典なんですね。鍵が手に入るまでは、読書しかないですね。その辺り生徒もよくわかってます。
③貸出期限は2週間、冊数は20冊ですが、延長も冊数オーバーもできます。決まりはありますが、実質的にルール無視で運用しています。
④例えば「どうしてホームレスはいなくならないか」といったテーマが生徒から上がりました。彼らは純粋に、「ホームレスになるのは自己責任だ」「社会からいなくならないのは努力が足りないからだ」と考えるんですね。ずいぶん資料を渡したり、面談で喋ったように思いますが、こちらが伝えたかったニュアンスは最後まで伝わりませんでした。他にも各種依存症や武器兵器など、色々あります。学習や面談を通じて、その生徒なりの倫理観が構築されると、たいへんいい研究になっていきます。一方で読解力や世界観の狭さなど、様々な理由で至らない生徒もいます。後者はだいたい、途中でテーマを変えてしまいますね。
⑤卒論は「総合的な学習の時間」で行うため、通知表記載は文言評価のみになります。ですので、評定は出ません。「いい点数を取らなきゃ」という外発的な動機付けが通用しないので、そうした状況で、それなりの成果物を全員が仕上げられるかどうかは、まさに今回の「心理的安全性」がキーになるのかなと思います。
石山先生:
石山より②以降について補足回答いたします。
②は、大学でも現在問題になりつつあるようですが、高校でもGIGA端末の活用に伴ってそのような生徒は非常に多いのが実情です。また、学校図書館の蔵書の限界もあります。本校は2万冊程度の書籍を所蔵していますが、文献としては古いものも多く、書籍だけでは最新の研究を追えない部分があります。基礎研究や必読の文献は図書館にも所蔵しておくよう意識していますが、書籍を必須とすると、公立高校での探究はやや苦しくなります。本校は現在ジャパンナレッジSchoolを導入しているので、そちらの新書等も図書館の文献と同等の扱いとしています。いずれにせよ、「その情報が科学的(人文系のものであれば資料的)に実証された妥当なものであるかどうか」「ウェブの情報だけだとしても、それらの情報は必ず裏付けが取れるか、その文献に書いてある参考文献に当たれるかどうか」は生徒に指導します。
③東高校は「1人1回8冊、10課業日」の貸出としています。延長も可能です。
④これについては山﨑先生のご回答とほぼ同じです。上での回答も参考にしていただければと思います。
ご指導方法についていくつか具体的にお聞かせいただけると幸いです。
①作文の指導、参考資料の見つけ方などはどのようにご指導されてきたのでしょうか。
②多岐にわたるテーマのご指導ということですが、どのようにご指導されてきたのでしょうか。(失礼ながら先生ご自身が詳しくご存じのテーマと、ご専門ではない領域のテーマもあったのではないかと思い、気になりました。図書館司書のご経験もおありなので、もちろん多様な知識をお持ちなのでしょうが…)
③論文の評価基準、合格基準はどのようなものでしょうか。
④長期欠席ではなくとも合格できなかった、論文を仕上げきれなかった生徒へのフォローなどはどのようにされてきたのでしょうか。「興味があるものなんてないし…」なんて言う生徒も増えてきているのではないかと思います。
⑤ティームティーチングでの授業ということですが、他の先生との連携はどのようにされてきたのでしょうか。
⑥差し支えがなければ、これまでにご苦労されたこと、ご指導が難しかったテーマ、それに対するアプローチがあればお聞きしたいです。
山﨑先生:
①作文指導は中学3年間を通じて段階的に行っています。大きく分けると、「エッセイ創作で書き慣れる→論理的文章」というステップアップです。前者は京都で国語科教員をされていた、深谷純一先生の『カキナーレ』(ペンネームでエッセイ創作、ペンネームで相互評価)と、細川英雄先生の「魅力的な人に取材する」を参考にしています。書くことへのハードルが随分下がります。その後に卒業論文ですね。論文になると、作文のよしあしはどちらかというと「書き方」というより単純な「学習量」と「興味関心の度合い」に相当するイメージです。自分が大事にしていることをテーマに勉強すれば、中2までの作文トレーニングもあるので、作文で困っている生徒はほぼ見ないですね。それなりに成功しているのかなと思います。
参考資料の見つけ方は、先日のスライド内リンク「卒業論文のデザイン」に詳しいのでご覧ください。図書館スタッフも多いので、常日頃からカウンターで相談できるのも大きいですね。毎日何名もレファレンス対応しています。司書がいるいちばんの強みです。
②僕自身が「指導する」スタンスをとっていないから、はたから見て「指導」できてるように見えるんだと思います。正直に言えば「支援」しかしてないですね。生徒は僕よりも詳しい専門家(著者)が書いた本を読んで、自分なりに考えて、書くだけです。僕はその本への橋渡しや、研究する上での汎用的なスキルを教えるだけです。彼らが自分で独学できるよう、その体制づくりをするという。ただ、この授業を10年もしていれば、それなりに多様なテーマを担当することになるので、耳学問的には知ってることが増えていきますね。
③合格基準は「問い・結論・根拠の対応、フィールドワークの実施と報告、参考文献に学んでいる」これだけです。「○○文字書きましょう」という分量基準もありません。そこから先はSABCDの段階別評価があり、根拠が十分あるとか、オリジナリティがあるとか、そんな感じです。だいたいの目安ですが、S評価で学部の卒論標準レベルかなと思います。大学やゼミの指導によりますが。昨年はS17名、A29名、B45名、C36名、D7名、不合格12名でした。B評価以上になると中高生としてはかなり、論文としての出来も秀でているんじゃないかなと思います。ただ、学習経験の面白さでいえば、評価問わずいずれもいい研究で、そこが大事なポイントですね。だいたいの生徒が11月の論文提出時に合格し、その後も評価を上げるために3月まで頑張ってます。特にそうした後半のブラッシュアップ期間は、強いられるでもなくみんなよくやってくれてるなぁと思います。
④だいたい学年で1割(10名弱)の生徒が不合格で終わります。そのうち7割は長期欠席者でこちらからアプローチできることが少なく、残りの3割は、学校に来れている・ぼちぼち来れているけど不合格ゾーンです。ほとんどの生徒が、おっしゃるように「興味があるものなんて…」と語ります。こうした生徒を相手に、ただ面談で話を聞いていくしか術はないです。それがきっかけでいい研究になる生徒もそれなりにいます。日ごろ何を大事にしているのか、何が面白いのか、何にムカついてるのか…その生徒の感情が動く要素を面談で聞き出します。が、そうした生徒の特長もまた「何にも心が動かない」だったり、「好きだけど惰性でゲームしてるだけ」で、なかなか糸口がつかめません。それでも話を聞いて、やりたいことを考える機会(授業)を作るのは大事なことだと思っています。
それにしても、テーマが決まらない生徒の割合は、まあそんなもんなのかなと諦めもついているというか、150人の生徒に「やりたいことやって」と言ったら、そのうち1割がやりたいことが見つからない。大人でもそんなものではないでしょうか。老後にやりたいことがない人や、就職での自分探しなど、ポストモダン的に「大きな物語」が終了し、「私」個人の人生を我々は考えないといけなくなったということかもしれません。最近の自分自身の研究テーマが、そうしたテーマの決まらなさと社会との関連なので、ぜひまたの機会に議論できたらと思います。そもそも人にとって「やりたいことを考える」ってどういう状況なのかは、考えると生徒理解に繋がり面白いです。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』をお勧めします。
⑤今は図書館付の探究科教諭だけで授業をしていて、それに加えて図書館からの学習支援があるという感じです。学校での生活圏が同じなので、昼食をとりながら、図書館カウンターでと、常にやりとりしています。目の前の生徒を見つつ、予定をどうするか、評価をどうするか、今どの生徒がどんなことに困ってる…など、かなりミクロな話が多いです。
⑥色々ありますが、長らく「頑張って勉強はするけど文章が書けない」が続いていました。喋れば研究内容をたくさん語ってくれるのに、書けないんですね。数年前から取り組み始めた、①の作文実践がかなり効果を上げているように思います。ほかにもいろいろありますが多すぎて…。難しかったテーマなどは、面白い話がたくさんありますね。またじっくりお話しできる機会が作れたらと思います。
こうした指導上の大変さよりは、むしろ学校組織づくりの方が難しさを感じます。
石山先生:
石山からも一部補足回答いたします。
②テーマの指導は公立高校では常に悩みの種となってしまいますが(担任団中心のメンバー構成となるため、継続性が担保されないことが多いため)、ただ、だからこそ、内容の指導よりも技術の指導にできるだけ偏らせるようにしています。専門外のものは、専門の先生に質問に行くことや、自分たちの基礎知識や探究で深めた内容が十分であれば、外部機関へのインタビュー等も許可しますが、いたずらにそれを許可するのも違うと思うので、とにかくまずは自分たちで調べられるだけのことをとことん調べさせるようにします。
③本校でのレポートの評価規準はセミナーでも述べたとおり、非常にシンプルにしています。3項目(引用の方法、意見・根拠・事例、字数)について、基準を満たしていればA、満たしていなければBです。Cはつけません。レポートは「知識・技能」として評価します。提出できれば合格です。
④未提出の生徒は個別にカウンセリングを行うようにしています。が、叱ることはしません。もちろん、怠学で提出しない生徒も1,2名ですがいないわけではありません。しかし、その生徒は出さないことにより探究活動の中でのハンデを背負うことになるので、そのハンデと引き換えに叱らない、ということです。事情があって書けなかった生徒については、適宜カウンセリングをはさんで、書けるように支援していきます。興味が本当に何もない、という生徒は、今のところ対話を重ねている中ではいないです。
⑤2年生の1学期のみTTの形式を取っています。週1回の打ち合わせの中で、それぞれの先生から見た生徒の様子を話してもらい、全体で共有しています。
⑥とにかく生徒よりも教員の理解を得ることのほうが大変だったなあ……と思っています。やはり先生方にもそれぞれの教育観があり、また、先生方にも心理的安全性が必要であるため、その部分を毀損しないようにしながらも、本校での探究活動の目指す方向を共有して理解してもらわなければならない場面に向き合うことが、なによりもの苦悩です。生徒の選んだテーマで苦戦したことは特にないのですが、テーマにかかわらず、やはり「レポートを書【か】なかった(結果的には書【け】なかった)」生徒のいるグループで活動が停滞した場合が大変だというのは、担当された先生から報告が必ず上がります。そのようなグループには私も入ったりして支援していくようにしています。
(山﨑先生に)
①分野が異なる生徒間のやりとりはどのような感じですか。学習への好影響を及ぼすような関係性はありますか。
②支援について話す際に使われていた「チア」という語は何か特別な意味合いで使われていますか。
山﨑先生:
①セミナーの最後にお伝えしたような、個人研究を経たからこその協働が好影響を及ぼしますね。みんなそれぞれ個人で研究を抱えているということは、それを先に乗り越える生徒もどんどん出てきます。たとえ分野が違っても、人の研究にあれこれアドバイスする様子は常に教室で見られますね。見ていて面白いです。評価の高い生徒からのアドバイス、応援など、色々です。
②すみません、なぜか「チア」を使ったのですが、特別な意味はないです。単純に応援ですね。とりわけ研究初期~中期にかけては生徒も不安感が強いので、その時期はずっと応援してる気がします。まあやってみようよ、読んでみようよ、いまいちだったらテーマ変えればいいよ、面白いかもしれないよ…目の前の生徒を見ながら、やさしい言葉をかけるようにしています。生徒にはよく「3年の2学期から豹変する」と言われます。添削や、論理構成へのツッコミのようなテクニカルな指導が始まるからでしょうね。
社会課題×協働…教師は進捗状況管理、というパターンの探究が一般的に行われているのではないか。そこにICTのスキルや便利なアプリ活用によって内容が高められるような錯覚を起こしているように思います。読書により他者の考えを理解することが傍に追いやられてるように思われませんか?
山﨑先生:
そう思います。色んな学校で、探究の先生に話を聞いてきましたが、やはり皆さん仕事の中心は進捗管理と紛争解決とおっしゃいますね。そこへICTが来ても、コスパ、タイパへのアプローチにしかならないと思います。それって探究学習の仕事なのかな、大変そうだな、といつも思います。
「他者の考え」についても同じです。協働学習の題目として、しばしば「協働を通じて他者の考えを知る」も語られますが、例えば半年くらい参考文献を読み込むような「学習」が先にないと、他者の考えもただの思いつきを喋るだけにならざるをえないですよね。ふつうに読書で勉強したほうが、結果的にコスパもタイパもいいと思うのですが。そして、そうした勉強然とした読書を実現する動機が、興味関心なのだと思います。
石山先生:
読書や文献講読をないがしろにする探究は、これから逆に端に追いやられていくと考えています。現に、大阪府でもSGLHやSSH採択校の探究活動が、文献講読を活動にどんどん取り入れているような話を聞きます。北野高校も図書館の活用に力を入れつつあります。そのような潮流の中で、ICTもおのずとその使う位置が定まっていくように私は感じています。東高校は「自分の好きを究めろ」という探究の方向性で進んでいるので、社会課題につながれば一挙両得だよね、その中で一人でできることに限界もあるから、それも理解できたら一石三鳥だよね、というスタンスで探究活動を進めています。
大変ありがたいお話ありがとうございます。私も授業内で探究学習的に論文の作成やプレゼンテーションなどをやっています。生徒の関心・意欲に任せながら、前向きに取り組ませている時に、別の教員などが横から(本人は冗談めかしているのかもしれませんが)批判的なことを言ってしまい、一気に自信を喪失したり、テーマを変えたいと言ってきたりすることがあります。余計なことを言わないでほしいと思うことも多いですが、例えば、他の教員に対して生徒の心理的安全のために働きかけることはありますか? あるとすればどのような形で働きかけますか? お教えいただけると幸いです。
山﨑先生:
生徒の探究テーマや読書する本に対する、教員による「デリカシーがない・距離感がはかり切れてない」発言はよく聞きますよね。同僚なのでそれこそ相手によりますが…。例えば「生徒自身がテーマを決めることが大事」「どんな分野でも最終的にはいい研究・論文になる」という情報の共有は、長く授業を続けていることや、異動のない私立の特性もあり、ある程度先生方の間にも共有されています。
中3の卒論進捗アンケート結果などは、学年団所属の先生方にも毎月報告していて、「ご自身のクラスの生徒を応援してあげて下さい」とも伝えています。生徒が心理的安全に探究できるよう、教員の風土づくりにもアプローチしています。
石山先生:
これはじつはよくあることで、やはり教員は自分の発言に常に自覚的でなければならないということの根拠になります。私ができる限り「疑問形から対話に入る」のもこのことを意識してのことです。だから、職員会議などで発言のタイミングがあれば、そのつどそのことについては他の教員にお願いするようにしています。それでも防げないことはありますし、なんならその職員会議で探究活動そのものを批判されることもあるので、諸刃の剣ありますが……。
探究科には何人ぐらい在籍しているのでしょうか? また、司書は別にいるのでしょうか?
山﨑先生:
探究科在籍者は2名です。2名とも探究の授業を担当しつつ、学年や分掌に所属したり、図書館経営も担います。一方で学校司書も別に3名おり、ある程度はそちらに図書館運営をお任せできる状態です。そうした5名が顔を突き合わせながら、チームで図書館経営と授業を担っています。
事前に1つ関連の質問をお送りしたのですが、もう一点です。学校図書館、司書の必要性に対して理解がない経営陣にそれを理解してもらうとしたら、先生方ならどのような材料を用意しますか? 理解がない、というのは、「窓口業務以外に何がある?」というような返答が返ってくる感じ」です。
山﨑先生:
清教学園図書館の材料をいくつかご紹介します。
①図書館の年間事業報告を毎年作っていて、その年度の資料統計・利用統計・授業利用統計・生徒の成果・読書推進活動・来客者数・登壇した学外セミナー数・今後の課題などをまとめ、冊子に製本し、理事会や職員会議でばらまきます。10分だけ時間下さいと伝えて、口頭でダイジェスト報告もします。ネット検索するとPDFがヒットするので、ぜひ真似して下さい。
②とにかく授業活用の実績を作ります。先生ご自身が授業を作れる立場であるということがとても大きいです。全国の学校図書館スタッフは、そこに到達できないがために活用が進まないというケースが非常に多いので。ぜひご自身の授業で図書館を活用し、いい探究学習を実践して下さい。図書館を使ったいい探究学習が、いちばんいいアピール材料を生みます。
③本校の論文を貸し出すので管理職に見せて下さい。「図書館×個人探究×自由テーマなら、授業担当者2名で、150名の中3がこのレベルの論文書けますよ」と言えば、経営陣的にはコスパよく見えると思います。実際コスパはいいです。蔵書や先輩作品は蓄積され後輩の役に立つし、司書のレファレンスは生徒の成果物にそのまま影響を与えます。生徒の学習成果物は学校広報の上でもアピールポイントになります。
石山先生:
私学と公立高校では管理職の立ち位置が違うということもありますが、公立高校でも、まずは図書館の実績をとにかく上げて、管理職に見える形で報告することは必須です。年度末の職員会議で必ず「探究推進部年度末総括」として報告を上げ、年度当初の職員会議でも同じ資料を出して当年度の経営方針を報告します。そうしなければ、人・物・予算は手に入りません。
山崎先生、貴重なご講演ありがとうございました。ジャパンナレッジSchoolは授業(もしくはご指導)でどのようにご活用されているかお聞かせいただけると幸いです。
山﨑先生:
実は清教学園は「ジャパンナレッジSchool」の正式契約がなく、過去にトライアル版を使用していた頃の話になります。基本的に学校図書館の図書が充実していることと、書架に立つこと、体系的にまとめられた図書を用いることを重視してきたので、研究の初期段階では使用していませんでした。本校のWeb利用と同様、参考文献を用いた研究がある程度進み、生徒自身にテクニカルタームや分野の基礎知識が身に着いた後の利用が中心でした。とくに複数百科事典・辞典の横断検索は、語句の定義を検討する際に有効でした。複数文献から引用しつつ、「自身の論文では○○を定義とする」というような使用方法ですね。そのほか、国勢図会の統計データなど、こちらも「定義、歴史、現状の統計データ」等はどの研究分野でも揃えるように伝えていたので、そうした情報の収集に使っていました。
石山先生:
東高校は全学年で現在ジャパンナレッジSchoolを導入していますが、1年では新書を読むことを中心に、論理コミュニケーションでの引用講座の資料として、2年では事典や図鑑、統計を参照することをメインに利用しています。
探究以外でも、古典の授業での利用にはジャパンナレッジSchoolは最強の威力を発揮しますし、英語の授業での辞書の引き比べや、地歴の授業での白地図の利用など、いわゆる文系教科には親和性が高いと思います。
今後の探究学習はどのようになっていくと考えていらっしゃるか先生方のご意見をお聞かせください。
山﨑先生:
一過性のブームとしての「探究」は、成果物・授業形式が民間のコンテストや文科省の各種コンソーシアムに依拠するので、そうした大きな団体のフォーマットに合わせて今後も形を変えていくのだろうと思います。AI、STEAM、SDGs、心理的安全性…なんでもいいですが。常に新しい流行がやってくるので、それに応じて教育市場も、教育現場も、ただ流れていくのでしょう(戦後の教育史はずっとそうですよね)。
一方で、本校のような「第1象限の探究学習」は、今後も細々とどこかで大事にされていくのだろうと思います。昨年のセミナーでは、山形市立小学校が実施していた1947年の探究学習を紹介しました。本校の卒業論文とほとんど同じ取り組みで、現在も続いています。一方、僕の前任者である片岡則夫先生も、1980年代後半からずっとこの実践を続けてこられました。いくつか懇意にさせていただいている他校も同様です。ロジャースの学習者中心主義、デューイの経験主義や学校図書館観などを大事にする学校は、今も昔もそれを細々と続けています。自分が勤める清教学園もできればそうあってくれたら嬉しいな、とは思います。それこそが、ただの流行や時代の流れに右往左往しない、普遍的な「よさ」を伴う教育だからと、僕自身が信じているからです。
石山先生:
今のままの「少し違和感のある」探究学習は自然と淘汰されていくのではないでしょうか。パフォーマンスに偏ったり、協働ばかりが取り上げられるのは、やはり探究活動としてはひずみがあります。総合型選抜に「使える」という言葉が横行し、さまざまなコンテストが開催されているのもひずみの1つです。そうではなく、これからの時代を生きていく中で、自分の「好き」を究めて人生をどれだけ楽しんでいけるか、世界への解像度をどれだけ高められるか、という「個人の生き方」を軸に据えた探究というものが王道であると思いますし、それこそ山﨑先生もおっしゃるように、そのような探究は1世紀前から続いているわけですから、私はそのような探究の王道にまた戻っていくのではないかと考えています。
石山先生、貴重なご講演をありがとうございました。図書館は常時開放されているとのことですが、それは先生が分担して生徒さんの通学可能時間は朝から放課後まですべて開館されているということでしょうか? 本校もその点で教員の負担が増えていて困っており、よければ教えていただきたいです。
石山先生:
朝は私が勤務時間をずらして8時から開館する体制にしています。また、授業時間については、貸出はなかなか難しいものの、図書館内に探究空間「E-PLANET」を昨年度構築し、壁面ホワイトボード・可動式の机・椅子でグループ活動がしやすい環境を作ったので、そこを授業や補習で使用する先生は確実に増えました。そのような授業内での図書貸出は可能にしています。また、探究の時間は司書教諭とも協力して常時開放しています。放課後は17時まで貸出可能、18時まで自習室として開館しています。勤務時間以降の部分は、部活動の付き添いのある分掌吏員に管理をお願いするか、その人員がいない日は教頭管理となっていますが、実際に教頭管理になる日は年に3回程度です。もともと探究推進部が7名体制なので、その部分の負担は今のところ少ないです。労務管理の面については私もずっと悩んでいるところですが、このあたりは、教務や管理職とも相談して、勤務時間内でできる限りのことを目指す、というのが妥当なところかと思います。
山﨑先生:
東高校の状況については、石山先生のコメントに譲ります。清教学園は司書がいて、併設2教室で常に探究学習が行われているので、図書館の常時開放と学習支援は最優先の仕事です…。
生成系AIについて、石山先生から言及はありましたが、山崎先生はどのようにお考えでしょうか。先日、甲南大学の探究学習のセミナーに参加した際にも、生成系AIと「調査」についてがメインテーマとなっていました。要約すると「クリエイティブなことをさせるのではなく、生徒が作ったものの確からしさや正確性を判定させたり、テーマの広がりなど不足していることをサポートさせる」のがよいのではないかという内容でした。そのような使い方について、お二人はどのようにお考えでしょう?
山﨑先生:
自分自身が仕事でそれなりに使っているからこそなのですが、中高生に生成AIは必要ないと、今現在は思っています。生徒の学習観が理由です。どの発達段階の誰もが自らの動機に基づき主体的に学ぶ、というのであれば、色んな展開が考えられます。でも、実際のところはそうではないですよね。ノルマ的な学習観を脇に置いたままでは、教員による授業設計も、生徒による建設的な利用も、かなり難しいと思います。それこそ、心理的安全性が確保されていないような探究学習では大変ですよね…。そうした状況下でのAI活用はディストピアにしか思えません。そもそも大人や社会がそういう状況ですよね。
どこまでいっても学習の目的とは、「それ自体を経験すること」なのだと思っています。生成AIを使えば、本校の生徒による初めての論文など、1日もかけずに完成させられます。しかし彼らにとって、自分でテーマを決めて、コツコツ読書して、考えて、相談して、1年間いったりきたりして、論文書く…という学習経験の大切さは、授業アンケートや卒業生対象の追跡調査から実感されているように見えます。悩んだりもがいたりする中で見出した「自己の在り方生き方」にこそ、彼らは学習の意味を見出していました。そこにAIが入り、成果物のパフォーマンスが上がったところで、それは学校や、学習や、経験といった事柄の実存がただ脅かされるだけのように思えます。
他方で、実は自分の授業でも一部、AIを使うシーンがあります。卒業論文のフィールドワークで専門家に取材したり、社会調査をした生徒が、mp3の録音データを生成AIで文字起こしする、というのはやってます。他にも、研究発表会の前に自分の論文PDFを生成AIにかけ、600字の要約をやらせる、ということもあります。とても便利です。そうした「限定的な使用」「人間がやらなくてもいい使用」以外では、今のところ使おうと思えない、というのが正直なところです。仰るような「正確性」の判定なんかはいい使い方に思えますね。論文の「根拠の乏しさを指摘する」とかも、あり得そうです。
1年かけて自分の論文を自分の力で完成させた本校の中学生なら、この先色んな建設的な使い方を生み出してくれそうな気もしています。研究という作業の全体像を、いちど自分の手足で経験しているからです。例えば子どもが木工作をしたいと言った時に、いきなり丸ノコやインパクトドライバを使わせないですよね。木材が切れる仕組みも分かりませんし、ヘタするとコントロールできず大ケガします。ノコギリの扱い方を学んだり、ちょっと手を切ったり、釘打ちに失敗したりしながら、色々学んでいく。そうして色んな作品作りに取り組み、失敗や成功を経験したあとで、じゃあ壁一面の大きな本棚でも作ってみようかとなれば、初めて「丸ノコ使ってみようか」と大人も言える。AIは便利ですが、丸ノコくらいの便利さ、危うさで考えばいいんじゃないかなと思います。
石山先生:
ここは山﨑先生と意見が少し分かれるところですが、私はこれからの時代を生きる生徒が生成AIとの付き合い方を「身体感覚とともに」身につけていくことは必須のように感じています。ただ、その「身体感覚」がそもそも「手で書く」「耳で聞く」「口で話す」「目で見る」といった、自分の身体そのものを用いた活動によって研ぎ澄まされるものなので、発達の段階に応じて利用を進めていくというのは大前提でありましょう。小学生や中学生が生成AIを使うのは、それは早いだろうと私も思います。
本校の情報科のベテラン教員が話していたことですが、生成AIは「スキー場のリフト」である、スキーを楽しむために、リフトを使わずに山を登るのは大変だから、怖くてもリフトは使うし、リフトを使うと山に登る負担が減るので、それを使わないわけにはいかない、でも、リフトに乗るのが楽しくなって、スキーで山を滑らずにそのままリフトに乗って山を下りてきた人間はスキーを楽しんだとは言えない、この話の「リフト」を全て「生成AI」に、「スキー」を「探究学習」に置き換えてみてください、というたとえ話が、今のところ最も私の腑に落ちる生成AIに関する説明です。
「他方で」以下の山﨑先生のご回答はまさにその通りであるかと思います。また、私も生徒の努力は時間をかけて自分で調べたことを自分でまとめるところに光るものがあると考えていますので、その部分は上手に生徒にも説明していきたいと思っています。
(石山先生に)「評価のない環境」についてですが、教師や生徒の「反応」が評価を帯びてしまうのはどうしようもないでしょうか。(本当によいと思った反応か、そうでもないのに気を遣って表面上ポジティブな反応をしているかは、反応を受けた生徒やクラスメイトは気付くのでは?)何か対応や心がけたい点があれば教えていただきたいです。
石山先生:
反応が評価を帯びたとしても、それはやはり「反応」でしかないので、生徒には「探究は評価や比較を度外視できる科目だよ」と最初のガイダンスで必ず話すようにしています。最初に話すことが重要です。後から話すと、生徒は後付けだと感じてしまいます。そういう意味で、探究はとにかく「最初が肝心」です。「そうでもないのに気を遣ってポジティブな反応をする」こと自体、私は生徒にも失礼なことであると考えていますので、そういう場合に無理に褒めるのではなく、やはり疑問形から対話を始めて、ポジティブな面を生徒と一緒に考えていくというマインドが重要ではないかと思います。
山﨑先生:
パネルで取り上げました。ありがとうございました。僕からも補足します。教員が設定した評価がパフォーマンス評価でなく形成的評価である場合、生徒の「反応」もそれに習ったものになる実感があります。生徒も相手生徒の研究動機や、研究経験や、論理構成やオリジナリティ等…気遣いでなく批判的にコメントするような印象です。そうした反応(評価)も、教員のスタンスから学ぶんですね。そして「そうやってコメントするほうが本質的な主題や建設的な議論になって、その場が面白くなる」ということもわかるようです。生徒どうしが授業中にやってるおしゃべりは、こちらも聞いていて楽しいです。
石山先生にご質問です。差し支えない範囲で大丈夫ですので、もしよろしければ、今回の講演で出てきた「友達から持たれているイメージが崩れてしまう」とはどういう内容なのか、教えていただきたいと思います。私のイメージが少し追いつかなかったので…。
石山先生:
具体的な生徒の話はセミナーで取り上げたとおりですが、やはり生徒は自分の属するグループやクラスの中での自己イメージを少なからず有しています。一方、探究活動は一部なりとも自己開示を必要とする部分があるので、それと生徒の自己イメージに乖離が生じると、おそらくその生徒にとって探究は非常につらい活動になると感じています。文理学科での探究活動の大変さは聞き及んでおりますので、また違った部分での似たような問題もあるのかと推察しておりますが、高校間での情報交換をもっとフランクにできる「場」があれば……ということを切実に感じています。教員の情報交換はもっとされてもいいように、私はこの数年ずっと思いながら探究活動に接しています。
山﨑先生:
パネルで取り上げました。ありがとうございました。個人で、自由テーマで探究学習をやっている学校では「あるある」ネタですね。生徒がよくいう「陽キャラ/陰キャラ」イメージ、道化を演じる男子、かわいいもの好きを演じる女子…といったように。どんな分野でも研究はできるので、こちらは止めないですし、まじめに学習支援しますが、とはいえその生徒個人の研究動機が伴わないケースが多く、途中でやめる生徒が多いです。「途中でやめる」「=みんな自分が面白いと思う世界をやってるのに、自分はキャラに拘っているからつまらないという現状がわかっている」ということなので、それは自然なことなのだと思います。どんな分野でも興味が伴えば笑われず応援されるし、どんな分野でも興味が伴わなければ「やめたら?」と言われるのです。
テーマに関して、個人的な興味ではなく社会課題を取り上げるように、という管理職からの要求があります。以前、生徒の興味に基づいたテーマで探究活動をした年度に、発表を見学に来られた多くの教員からテーマがくだらないという指摘がありました。テーマを生徒の興味に基づいたものにしていきたい時、教員全体に向けてどのような伝え方ができるのか、アドバイスをいただけますか。
山﨑先生:
パネルで取り上げました。ありがとうございました。そうした反応は教員として一般的なものなので、構造的な難しさがありますよね。社会に役立つ人間、社会課題を解決する人間を育てる教育観は本当に根強いですし、学習の「よさ」が担当教員の価値観に由来する分野へと収斂していくのは、危ないことだなと思います。時代が変われば「よい学習内容」が変わるわけですから。
参考になるかはわかりませんが、「なんでも自由なテーマでやっていいよ」と言っても、それなりに生徒のテーマは社会と繋がっていく現象がしばしば見られます。自分自身に動機や当事者的な背景があり、はなから社会課題テーマでやる生徒がそれなりの数います。「SDGsに興味を持て」「興味なくてもやれと言われたらやれ」ではなく、その生徒自身にとって大事なテーマがたまたまSDGs分野に該当していたのだから、いい研究になります。また、直接的にSDGsに該当する研究でなくても、興味関心からスタートした論文はほとんどの場合何らかの形で社会課題と繋がってきます。昨年、中3が取り組んだ研究一覧をスライドのどこかにリンクで入れてるので、またご覧ください。
石山先生:
管理職からの要請は、やはり管理職としての視線で、人・物・予算を確保するためにはそのような視点も必要だという思いから出ていることもあるので、どうしてそのような要求があるのかを管理職と対話する必要もあるかと思っています。また、見学に来た教員はその探究活動の本当に一部しか見ていないので、そのテーマがくだらないかどうかを判断すること自体が、私からすれば「その学校の背景事情を考えていない、一面的なくだらない感想でしかない」と思いますので(言葉がきついかもしれませんが、偽らずそう思っています)、私はあくまでも生徒の目線に立ったその学校の探究活動を大切にするのがよいと思います。そのことを素直に他の教員にも伝えるのがよいでしょう。
(石山先生への質問)教員は評価をしたがるので、ルーブリックを簡素化することで適切な評価が返せないということも考えられます。教員からはネガティブな声は出ませんでしたか? 個人的には、賛同します。
石山先生:
むしろ担任団や評価担当者からは「あっという間に評価ができた」「負担が一気に減った」というポジティブな回答しかありませんでした。「探究は生徒の取り組みが生徒自身で納得できることが大切で、私たち教員の評価はどこまでも補助でしかない」と明言していますので、そのあたりも効果があったかと思います。生徒自身がどのように自分の取り組みを捉えているか、それが可視化できるしくみのほうが重要であるかと思います。
山﨑先生:
山﨑からも補足です。過去、校内規定で総探も評定を出していたことがありました。当時の同僚に「形成的評価と定量的評価の乖離に悩んでいる」「前者は添削や面談、進捗アンケートで上手くやれてるが、後者が難しい」と相談したところ、「評価の主目的は公平性担保でなく、フィードバックとその後の学習の促進なのだから、前者が上手くいってるならそれでいいのでは」と言われました。ああなるほどなと思い、総探の枠だったこともあって、その後評定はやめてしまいました。何のために評価をするのか、という点が議論されれば、自ずといいありようが生まれるのかもしれませんね。
「書くこと」について、国語科の教師として長年大学入試小論文指導に携わってきましたが、その中で「文章よりも構成」という視点で指導を行ってきました。構成さえしっかりとできてしまえば、「書くこと」自体を苦にする生徒はあまりいなかった印象です。石山先生の実践で「文章の型」の指導がありましたが、これが「書くこと」のキモだ感じてます。アーギュメントとその根拠、引用など要素を並べられれば、論理的思考と文章力の両方が養えるように思いました。実際に、構成に従って、アイデアを箇条書きしたテキストデータを生成AIに放り込めば、ある程度の学術論文ができてしまいます。「書くこと」という言葉が「書くこと」の学習の本質を見えなくしているのではという問題意識があるのですが、それについてご意見をうかがえれば幸いです。
山﨑先生:
山﨑からも補足です。2万字程度の論文でも似たようなことが言えるように思えます。論文のテンプレート自体は配布しますが、その中身をどう構成するかは生徒の研究内容と主張次第で、それがまさに「アーギュメント」ですよね(阿部,2024に習うなら)。
ただ、中高生の「書く」難しさは他にも複数の要因が絡むようにも見えます。「書いたら添削される」「あらかじめ教員が求める主張が課題文自体に見え隠れし、実はそこには生徒の考えが求められていない」「公開されることへの恐れ」といった心理的安全。そして、そもそもアーギュメントに至れるほど当該分野を学習していない、など。書くことに対する抵抗感を取り払うことと、書くに至れるほどの学習量を確保できるかが、書く授業の前提として必要と思います。
石山先生:
まさにその「構成」を鍛えるのが、「論理コミュニケーション」の「文章の設計図」演習であると思っています。意見・根拠を思いつく限り列挙し、そこから2つ選び、それぞれについて観察・実験・文献に基づいた自分自身の身の回りの事例を両方書き、そのうちの1つを選び、そこでようやく構成を書く。この一連の工程を1年生の時にじっくり経験しているからこそ、生徒の「書くこと」への抵抗感が低くなっているのが本校の特徴です。
だから、私は「書くこと」という文科省の用語が「書くこと」の学習の本質を見えなくしているというよりは、文科省が「書く」という行為を大ざっぱに捉えすぎていて、それをさらに自治体の教育委員会の指導主事が曲解し、結果的に現場の教員のそれぞれの判断に「投げられている」からこそ、この「書く」という行為がなおざりにされているという印象を受けます。だから、生徒には「書くこと」という言葉を使わず、「書いて○○する」という、「書く」行為があくまでも何かを達成する手段であるという言い方をするように心がけています。書くことを目的化してしまうことがいちばん「書くこと」を疎外している、というのが私の見解です。探究では、そのあたりのことについて、評価をほとんど気にせず生徒に実践させられるので、この長所を使わないのはもったいないでしょう。だからこそ、生成AIとの関係を教育現場はもっと迅速かつ真剣に考えるべきなのだと思います。
もと公立小学校教員です。公立学校の意義も、調べ学習、探究学習の意義も問われていると思います。そもそも大学進学を希望しない生徒の中には、勉強はさせられていることという認識がある生徒もいます。また、生徒、保護者にとっては、進学や就職に役立つよう、志望理由書や小論文の指導のほうにニーズがあると思います。そのあたりとの兼ね合いはどうなさっていますか。
山﨑先生:
僕の前任の片岡則夫先生は、清教学園だけでなく、多様な学校や社会教育の現場で実践されてきました。そうした経験から言えるのは、個人で興味を学ぶような探究学習は学習者自身の内発的な動機付けに火を点け、やがて「面白いから学ぶ」に至るということです。学力帯や学習目的を問いません。本校の実践を参考にして下さっている学校がたくさんありますが、聞く感じではやはり同様の動きです。させられる勉強から、やりたい勉強にシフトするのですね。興味があるから当然なのですが。
今は、そうした学習経験がそのまま就職や進学の志望理由・小論等にも繋がっていくので、むしろ教育志向の高い保護者こそ、探究学習のニーズはあるようにも見えます。受験産業や教育市場については疎いですが、子どもが興味を楽しく学んでいる姿は、今の保護者にとって「安心できる」ことなんじゃないでしょうか。保護者自身が、「私らしさ」や「私の人生」を生きる時代の人ですから。
石山先生:
私は、2019年1月に大妻女子大学で開催された「【緊急ワークショップ】「これからの「国語科」の話をしよう!――紅野謙介『国語教育の危機』(ちくま新書)を手がかりに」(Youtubeに動画も上がっています)に参加した際、まさにその話を質疑応答で取り上げました。高校生の半数は大学へは進学しない、そのことを忘れるとエリートの議論になってしまう、ということを述べたのですが、この感覚は今もずっと持ち続けています。ただ、「総合的な【探究】の時間」に改称されて以来、生徒の探究学習を見ている中で、志望理由書や小論文も結局は生徒の「探究」の上にしか成り立たないのではないか、ということを実感しています。「進学や就職に役立つよう」に、もとから「総合的な探究の時間」というものは「なっている」ということです。そもそも、この役に立つかどうかを議論すると、それだけで1つのテーマになるほどですが、探究なき志望理由は空疎であり、探究なき小論文は具体性を伴わない、という思いで日々の生徒の活動を支援しています。そのことについて、本校で今のところ異論はないように感じています。
私の勤務する学校では、意見の交換を大事にしていて、クラスメイトの考えを聞くことにも凄く高い関心がある生徒たちがとても多いです。一方で、「率直に意見や考えを共有する」土壌があるがために、「素朴な疑問」が呈されたり、「あの人とは違う」と見切りをつけるのが早かったりすることが課題としてあります。個々の生徒としてはそれなりにのびのびしているように見えるがために損なわれる心理的安全性について、どのように確保していけるでしょうか。
山﨑先生:
なかなか不思議な現象です。「いいクラス」になるほどそうした課題も出て来るのでしょうか? 「相対主義」の落とし穴でしょうか。どういった授業設計や議論のテーマなのか状況がわからないので多くは言えませんが、批判的な質問や意見を述べる必要が設定されたり、そのよさが認知されるといいんですかね。
石山先生:
意見の交換の中で、必ず「素朴な(ゆえに相手を傷つけてしまうような)疑問」が出てきたり、「あの人とは違う」という相手への見切りの評価が出てくることは避けられません。だからこそ、対話には常に「チャリタブルな姿勢」が求められることを生徒にも伝える必要があります。聞くことは「チャリタブルに聞く」ことであり、問うことも「チャリタブルに問う」ことである、自分の言葉が相手を傷つける可能性を考えて言葉を選ぶ必要があること(これを私は「自分の言葉の解釈を相手に委ねないこと」と生徒に言っています)、自分とまったく同じ思考や思想の人物など(原理的に考えて)存在し得ないからこそ、目の前にいる人を、どれだけ考え方が違っていてもチャリタブルに受け止めて、ひとりの人間として真摯に向き合うこと、それを人権の観点から伝えることをするのが教員の役割だと考えます。その部分を日々の授業の中でずっと言い続けること、できれば全教職員がその視点に立つこと、これが生徒の全面的な心理的安全性の確保につながると私は思っています。
生徒の力だけでやらせると視野が狭くなるので、教員がアドバイスをすると思うのですが、それもやりすぎると、今度は教員の探究になってしまいます。そのあたりの塩梅で心がけておられることはありますか?
山﨑先生:
よくわかります。そこはいつも意識します。研究の面談ではしばしば自分が知ってることや、アイデアを喋りたくなるものなので、いつも「知らんけど」精神で対面するようにはしますね。自分は立場上「司書」でもあるので、文献の紹介(レファレンス)が、指導しすぎ・誘導しすぎにならない、ちょうどいい塩梅を生んでいるのかなとも感じます。こんな本があったよ、ためしに読んでみる?
どこが面白かった? なんでそれが面白かった?
といった助言は、あくまで研究の主体を生徒に委ねるので。そうしたレファレンス・インタビュー的な指導は、司書の専売特許でもないので、ぜひ先生方も挑戦していただけたらと思います。
石山先生:
まずは①具体的な探究のテーマを示す(こういうこともしていいんだ、こういうことは気をつけなければならないんだ、というような感覚を身につけて、自分が持っている固定観念を打ち破るため)、②教員のアドバイスは、生徒の探究の内容に関してではなく、探究の方向性や調査技術に関することにできるだけ敢えて偏らせる(内容に踏み込むと生徒は萎縮するので、どこまでも生徒の試行錯誤を見守る姿勢を打ち出すため)、という2点は常に心がけています。具体例は示す、内容は考えさせる、技術はアドバイスする、これが教員の「ガードレール」としての役割になるのではないでしょうか。また、①は、これまでの先輩の実践のタイトルを示すだけでもかなり効果がありますし、こういうことを、本当は他校ともっと共有していいのではないかと考えています。
総合型選抜入試を見据えて、本校ではレポートよりもプレゼンテーションの発表に力を入れているのですが、個人的にはしっかりレポートを書かせたいと思っていても、なかなか学校内の雰囲気的に難しい部分もあります。そのため、学校内ではどのように探究の位置付けがなされているのか教えていただきたいです。(分掌やチームがあるのか、体系的な学習となるようにカリキュラムやシラバスがあるのか等)
山﨑先生:
仰るように分掌、チームがあります。「探究科」教員(2名)が、中学卒業論文に向けたカリキュラムマネジメント、指導方針・内容・評価といった検討や指導を行います。これに図書館スタッフも連携します。ある程度は教育観や専門性(図書館に精通している、情報収集・整理・分析といった情報科的知見など)が近いので、わりと柔軟に動くことができています。
対して高校の探究学習との連携は本校もうまくいっておらず、課題です。ネックはやはり授業者の教育観です。テーマを教員が決めるのか生徒が決めるのか。個人でやるのか協働でやるのか。学習の充実を重視するのか、生徒どうしの協働を重視するのか。大きくその3観点が、各々の教育観によって決まっていくため、連携の難しさがあります。レポートは個人・生徒主体テーマ・学習充実の教育観に由来する成果物形式だと思います。みんなで作文はできない(しても意味がない)ですから。
石山先生:
学校現場は「パフォーマンス」という言葉をやや誤解しているのではないか、と私は考えています。「見せる」ことばかりを意識して、内容がないプレゼンテーションやポスターセッションというものを、今までにいくつも見てきました。それは本当に何にもつながらない、生徒の実力をかえって押さえつけることにしかならないものだと危惧しているところです。
また、グループ活動になると、なぜか生徒も教員も、これまでの積み上げがあっても「ゼロから始めようとする」ところがあるので、そういう意味で、本校のレポート実践は、「その成果物をもってグループ探究を始めるものであり、みんなはゼロからではなく、すでに【1】を持った人が集団を構成して、その1を足し合わせて、さらにそこに積み上げる探究をするのだ」ということを意識させるために、時間をかけて構成しています。
そのような探究を実践するためには、「探究をコンスタントに担う分掌」は絶対に必要です。これがないと学年任せの探究となり、継続性が担保されません。探究単独の分掌を構成するのが難しい状況であれば、何かの分掌と抱き合わせにする方向になるかと思いますが、やはり私は、図書館学習との親和性を考えると、図書の分掌と合わせるのがよいのではないかと思います。本校はそこに情報科が入って7名の分掌となっています。また、普通科・英語科・理数科と3学科あり、それぞれ実施内容が異なるので、2月の「生徒研究活動発表会」に向けての「研究活動委員会」を下部組織として構成しています。年間計画は年度当初に職員会議で提出し、大枠の内容は必ず全教職員に共有するように変更しました。かちっとしたシラバスやマニュアルについてはこれから作成していく必要があると思っていますが、まずは探究の理念を教員で共有すること、味方を増やしていくことが肝要かと思います。管理職がなかなか頑固で、という学校が多いこともよく聞きますが、誰のための何の探究なのかを考えると、おのずと管理職を納得させる方向性も見えてくるのではないでしょうか。